bjノベルズ
『トイレット』
西野浩司

【1−2】
Don't disturb

 結婚してからも彼はトイレに通いつづけた。無論いちだんと慎重に、家庭にも仕事にも悪影響を及ぼさないよう細心の注意を払いながら。
 生活は人並みに満ち足りて人並みに空疎で、たまに、この熱い男の口のなかこそ自分の勃起の住処(すみか)だと確信したくなることもあったが、そのたびすぐさま家に帰ってまだ男の唾液に濡れているものを妻に嵌(は)めた。
 三十までは、同世代の兄貴を誘惑するのは簡単だった。それがいつしか、こっちから手を出さなければなにも始まらなくなり、やがて、やっと個室に連れ込んでも昔の自分みたいなやつにばかり当たるようになり……仕方なく、彼は傲慢な受け身に徹するのを諦めた。まず相手をいい気にさせて徐々に同じことをさせる。しばらくはそれでうまくいった。が、そのうちにいくら奉仕しても返礼はなくなり、気がつけばただのおしゃぶりおやじに落ちぶれていた。ノンケに手を出して殴られたこともある。金をせびられたのも一回や二回ではない。彼は好みの青年の集まる安全なトイレを求めてさまよった。もう一度昔のように咥えてくれる年下の兄貴に出会いたくて。
 さいわい妻は息子に夢中で、もうお役御免だった。その手の雑誌や飲み屋などはなから頭になかった彼はひたすら便所で漁りつづけた。自分は男そのものではなくただしゃぶられることが好きなのだ。自分の人生はいまでも便所の外にある。そう信じながら。
 そして最近、スーパーのメンズカジュアルのフロアの陰に控えた、このトイレに通うようになったのだ。
 いつのまにか若者は学生服の前をはだけている。のけ反った喉から押し殺した声を漏らしている。
 もうそろそろだ。彼はそう思いながら、いじらしい勃起を摩擦する唇にいちだんと力をこめた。
 脳天の裏を亀頭で突かれ、彼の目尻に涙が浮かぶ。彼は自分のジッパーを下ろし、ベトベトに濡れたモノを掴み出してきつく握ったまま相手の肉茎を責めたてた。若者の膝が震えはじめる。いきたいのか、まだ楽しみたいのか、彼の頭を剥がそうとする。クソのこぼれた便器に手をついて彼はさらに激しくしがみついた。
 自分で根元を強く抑えて耐えに耐える若者。
 その苦悶のさまを見上げる彼の脳裏に、ふいに、初めてやられたときのことが蘇(よみがえ)った。
 あのとき、饐えたにおいの中年は発射寸前の彼に言った。「踏んでくれ」と。なんのことかと見下ろしたら、足元で相手の勃起が泣いていた。泣き笑いのような顔で見上げる相手に彼は理解した。そして彼は不潔な中年のグロテスクな勃起をバスケットシューズで踏みつけた。
「ああ、もう――」
 頭の上で、若者が初めて口を開いた。
 彼はとっさに相手の足を掴み自分の上に載せた。ちょうど金隠しの上に生えていた勃起に。そして思わず退こうとする靴を思いっきり押しつけた。相手よりずっと苦悶に耐えていた勃起がひしゃげるまで。
 いままで自分を欺きつづけてきた自分への罰だ。いや、とことん隠してきたことへのこれはご褒美だ。
 瞬間、若者の腰がバウンドし、その反動で離れた鈴口から、糊のような塊が何度も噴き上がった。
 それらすべてを顔面に受け止め涙と涎と鼻水のようにしたたらせながら、彼も、トロトロと、いつまでも精を垂らしつづけていた。
 ――そのあと、彼と若者は視線も合わせずに身繕いを整え、ドアの外に人がいなくなるのをじっと待っていた。
 と、誰かが激しくドアを叩きはじめた。
「なにをしてるんですか。早く出てきなさい!」
 警備員の声だった。
 ドアを叩く音は果てもなく続き、彼はただ便器を跨いで立ち尽くしていた。

前頁 次頁
戻る

2011 TERRA
PUBLICATIONS